教育随想

「教育雑感」

『国旗・国歌について』
教育委員会にいたころ、日の丸の掲揚、君が代の斉唱の実施率を調べたり、校長になってからは実施する側になっていろいろ言われましたが、私自身はそれほどこの問題に悩まされたり神経質になったりはしませんでした。それほどむきにになることもないだろうという生来のいいかげんな性格のせいかもしれませんが。ところがこのところ国歌国旗の法制化の動きが出て、またまた議論百出。でも、どれをとってみてもどうも私の考えと一致するものがありませんでした。
ところが先日毎日新聞の「君が代考」に載っていた評論家の八幡和郎氏のインタビューが比較的私に近いなと思ったので、ちょっと長くなるけど引用しておきます。(99/7/13)

ー通産官僚時代、フランスに5年間滞在されましたね。
---◆少なくとも私は、たいざいちゅうに国民が国家「ラ・マルセイエーズ」を斉唱する姿を見たことがなかった。イギリスの国民はわりと斉唱すると思うが。日本はイギリスをまねしているのかもしれない。フランスでは普通は吹奏だけだし、セレモニーで歌手が歌っても派手な伴奏つきで、歌詞などあまり深く考えなかった。ところが、1992年のアルベールビル冬季五輪の会かい敷きで、女の子が伴奏なしで歌い、国民は改めてぞっとなった。フランス革命の歌詞があまりに血生臭さかったからだ。それで当時、国家をかえようという機運が起きたがそのうちに忘れられてしまった。

ー法制化の動きをどう見ますか。
---◆法制化がどうしてもいけないという理由はない。イギリスのように慣習法だけで成り立っている国を除くと、世界的には法律を作るほうが普通だから、法制化そのものをおかしいとは言えない。しかし法制化をするなら、これを機に、国旗・国歌をどう扱うか議論を深めることが必要だ。国民的な合意を得るべきだ。

ーわが国での国旗・国歌の扱いについてどう考えますか。
---◆斉唱という形は、かなりグロテスクな姿だということを、もっと議論していいんじゃないか。今の日本での国旗・国歌のあり方は、あまりに押し付けがましい。特に国歌の斉唱。国際的にみても、皆でかしこまって国歌を斉唱しようなんてのは少ない。国旗にしても日本の小学校では畳一畳ほどの大きなものがドーンと掲げられているが、それはあまりにも威圧的だ。フランスではあちこちに三色旗は掲げられているけれども、サイズは小さいものが多いし、式典では改めて掲揚のセレモニーなどはしない。各家庭に国旗を掲げるという発想も、外国ではあまりないのではないか。

ー君が代の歌詞に反発する声があります。
---◆時代を経て、歌詞がだんだん時代錯誤となっていくのは当然です。だからと言って歌詞を変えなくてはならないというものでもない。一つの歴史的な所産ですから。平和を歌い上げる2番、民主国歌を歌い上げる3番を新たに加えればいいのではないか。NHKが放送終了時に流す君が代の調子にしても、いかにも軍国調で重々しすぎる。もっと軽い感じのがいい。

ー学校現場で、君が代教育は必要と思いますか。
---◆国民として君が代を知らないのもひどい話だ。必修で一度は教えることは当然です。我が国だけでなく他国の国旗・国歌にも敬意を払う態度を育てることは絶対に必要なことだ。斉唱を、ことあるごとに強制することはまた別問題だ。

ー官僚は、君が代を歌わないんですか。
---◆役人時代、斉唱させられることは一度もなかったなあ。学校でやらしておいて、役人になってからないというのも、確かに変な感じがするね。

このコーナーは柄になく、真面目なものですが、見る人にとっては一番面白くなく、時には寒気のするほど嫌なところかもしれません。

「教育雑感」は、最近感じた教育に関する問題

「教育随想」は、かつて中学校の校長の時、学校新聞に掲載したもの

「校長講話」は、中学校の全校集会での校長のはなし(3分以内で喋ることにしていました)
時々、何を話そうかと迷ったとき校長講話集なるものを見たことがありますが、あのてのものは全く参考になりませんね。読んでいて気恥ずかしくなるようなものばかり・・・ということは、私の話しも他人が読めば寒気のするようなものかもしれません。だから少しだけにしておきます。 

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教育随想

「時間の流れ」

 年が改まってすでに二十日、「おめでとうございます」と言う機会を逸したまま過ぎてしまいました。それにしても時間の経つのは速いものです。実は、二学期の終業式に生徒諸君にこの時間の流れについて話をしたところでした。今回はその話題についてお話ししたいと思います。  
 私たちは1年間を振り返って考えてみたとき、地球が太陽の回りを一周する1年間は、毎年同じ長さなんですが、どうも個人個人によって長く感じたり、短く感じたりするようです。年をとったものにとっては、若い時と比べて1年間が非常に短く感じられます。はじめ、これは自分が今まで生きてきた年数に対して1年間という時間の占める割合が1年毎に小さくなるからだと考えていました。ところが、最近どうもそれだけが原因ではなさそうな気がしてきました。生物学者の本田達雄氏によれば、ネズミの寿命は数年間、ゾウの寿命は約百年と動物の種類によって寿命は異なるが、寿命を心臓の鼓動時間で割ってみると、どの動物もほぼ同じになり、一生涯に約20億回だという。それだとゾウはネズミよりだいぶ長生きして得をしているようでも、必ずしもそうとは言い切れず、最終的には帳尻があっているのかもしれません。つまり、ゾウとネズミとでは一定の時間の長さを全く違った感覚で捕えていることになります。例えて言うなら、今ビデオ映画を見ているとして、ゾウは1日かかって10本の映画を見るのに、ネズミはわずか1時間程でその10本の映画をはや送りで見てしまうことができる。言い換えれば、1時間という物理的に同じ時間でも、実質的にはゾウは映画を途中までしか見られないきわめて短い時間であり、メズミにとっては逆に長い(豊かな)時間として感じられるということになります。このことから考えると、年寄りが同じ1年を若いときより短く感じるのは、若者が毎日新しいことを次から次へと経験し、新しいことを覚え、新しい考え方を身につけ、喜んだり、悲しんだりしているのに対して、年寄りは活動も感覚も鈍り、脳の回転も遅くなっているからではないであろうかと、最近思うようになりました。もし、そうだとするならば、人間、としをとっても豊かな感性を持ち続け、新しいことに挑戦し、充実した生活を送るなら、1年間をそんなに速く過ぎたと思わないですむかも知れません。  
 今の子供たちたちのこれからの人生が充実した幸せなものになるために、つまり、先の例で言えば、2、3本の映画が見られるところ、ビデオの回転が遅いために、わずか1本だけ、あるいは1本の途中までしか見られない人生になってしまわないよう、今からその基礎となるような知識や豊かな感性を育てるためのさまざまな体験を与えてあげたいと思います。
 今年はネズミ年です。ネズミのような生き方でゾウのような長生きをしてみたいものと、ずうずうしく欲張った考えをもった年の始めでした。

『心のビタミン剤』

 新年明けましておめでとうございます。今年の元旦は天気がよく、初日の出を拝んだ方も多くおられるたのではないかと思います。
 ところで、昨年十二月に理科の先生方が一年生の希望者を対象に星空観察会を開きました。私も参加させてもらい、M先生所有の反射望遠鏡ではじめて土星の輪とその衛星を見ました。レンズを通してとはいえ、写真ではなく実物をこの目で見たということに感激しました。その後さらに星団M15を見せてもらいました。レンズで捕えられたものは、ただ綿くずのようなぼんやりしたものでしたが、それが土星はおろかこの銀河系の外にある星の集まりだということで、まさに宇宙のドラマを見る思いがしました。そして、それを見ることができるところまで科学技術を発達させた人間の能力の偉大さにも感心しました。
 18世紀ドイツの哲学者カントが『私に畏敬の念を起こさせるものがこの世に二つある。それは夜空にきらめく星空と我が心の内なる道徳律(良心)である。』と言っています。最近の社会の風潮は心の内なる良心を軽んずる傾向にあるようですが、ひょっとするとそれは満天の星空を眺めたり、自然の美しさを感じたりする機会が少なくなったからではないかなという気がします。特に子どもたちの自然体験が少なくなってきていると言われています。小中学生を対象としたあるアンケート調査で「日の出、日の入り」を見たことのない子どもたちが半数近くあるという結果が出ていました。これは十年前の同じ調査の結果と比べると2倍以上になるということです。
 二学期の終業式で、正月に初詣に行くのもよいが「初日の出」を拝むのもよいですよと話をしました。
 日の出の次第に明るくなっていく東の空は私たちに希望と勇気を、日の入りの茜色に染まった西の空は心を癒し、安らぎを与えてくれます。自然の美しさや神秘性に触れる自然体験は「心の健康」のビタミン剤のように思います。豊かな感受性をもって自然と心を通わせ、その美しさや神秘性に素直に感動できる心は、他人の気持ちを思いやり、自分の良心の声に耳を傾けるような、人間に対するやさしい心につながっていくように思います。それは、自然を思うままに支配している様に見えている人間も結局は『自然』の一部分だからなのでしょう。自然と一体になるところに人間の生き方を見い出すのは東洋の伝統的な考え方ですが、現代のさまざまな教育上の問題も時にはそうした人間の生き方の根源的な面から考えて見ることも必要かと思います。

『生命の大切さ』

 ここ数年「いじめ」にかかわる子どもの自殺が大きな社会上の、教育上の問題として取り上げられてきましたが、この二、三ヶ月、今度は電話や手紙による自殺予告に多くの学校が混乱しています。いちがいに単なる「いたずら」として考えられない面もあり、学校がどう対処すべきかは難しい問題です。本校でも起きる可能性がないとは言えません。いずれにしても、その子どもたちが精神的にそこまで追い詰められていることは確かです。そのように子どもを追い詰めていった現代の社会や学校に問題があることは否定できませんが、一方極限まで追い詰められたと感じる、そしてその解決として死を選ぼうとする、その子の心そのものの弱さや精神的発達の不十分さ、自他の「生命」に対する認識の薄さを感じます。苦しみや悩みに打ち勝つたくましい心を育ててあげられなかった、また命の大切さを教えてあげられなかった我々大人の責任でもあります。
 しかし、私は今まで30年以上も「倫理」や「道徳」で「生命の大切さ」を教えようとしてきましたが、未だかって、私の授業や話で、本当に「生命の大切さ」を教えられたと感じたことは一度もありませんでした。いつも言葉だけが空回りをして生徒たちの心を通り抜け、「命は大切なのだ」という言葉だけが残り、教える方も教わる方も分からせたような分かったような気になってしまいます。
 本来「生命の大切さ」は人間に本能として生存欲求がある限り感じ取れるものであると思います。しかし、社会が高度に発達し、複雑化し、人間の想像力が広がって、二次的欲求が増すに従って、かえって根源的な「生命」に対する意識が希薄なものになってしまったような気がします。「生命の大切さ」を真に認識するためには、それぞれ一人一人がその心の核心を揺すぶられるような体験を通してしかないのではないかと思います。肉親や知人の死に心から嘆き悲しんだり、またそのような状況を目のあたりに見てその悲しみを共感したりする体験。そして人を愛し、人に愛される喜び、美しいものへの感動、毎日の生活の中での何かへの挑戦とそれを成し遂げていく満足感など、いわゆる生きていることへの喜びを感じる体験。そうした体験を子どもたちに与えてあげることが今必要なのではないかと思います。

『子育て・教育衛星』

 めっきり秋らしくなりました。今年の体育大会は前日が一日中雨でしたので開催が危ぶまれましたが、当日はよい天気に恵まれ無事終えることができました。毎年この時期はどの学校でも校長は体育大会当日の天候が気になって天気予報とにらめっこです。「・・・と秋の空」とか、今年も朝早く、空を見上げて迷った校長が何人かいたようです。
 それにしても最近の天気予報はよく当たるようになりました。昔の天気予報は下駄を放り投げるより少しはましかという程度でしたが、今は朝晴れていても新聞やテレビの天気予報で午後からの降水確率60%とあると、駅で見る通勤者の多くが傘を持っているほど信頼されています。正確になった理由の一つは、気象衛星が打ち上げられ地上はるかかなたから地球を覆う雲全体の動きを捕えることができるようになったからではないかと思います。あの動きを見ると私など素人でも何となく予想できそうな気がします。地上のいくつかの観測地点で気圧や風向きなど観測しただけでは、その後の天気の変化を正確に予測することなどきっと難しいに違いありません。
 天気予報の降水確率を見ながら、子育てや教育にもこうした予測ができればよいのにと思います。高校入試については模擬試験などの結果で合格率80%などと出されることがありますが、これは子どもの将来の幸福確率や高校へ入ってからの非行確率ではありません。
 しかし、私たちは単に高校の合格率だけでなく、子どもの明日から将来にかけての生活における幸福確率や非行確率を予測しながら今の子育てや教育を考えていかなければならないと思います。そして必要なら傘も準備しなければなりません。そのためには定点観測のように目の前の子どもの姿だけを見て、遊んでばかりいるから勉強させよう、素直に親や教師のいうことを聞くから安心していられる、などと簡単に判断しては雨に濡れていまいます。今、子どもが置かれている状況を、その友達、親、教師との関係など、少し離れた高いところから眺めて見る必要があるのではないでしょうか。その時、眺めている自分自身をも客観化して、子どもとの関係を見ていくことが大切であろうと思います。そして幼児期から現在までの動きを眺めてみれば、案外子どもの将来の幸福確率や非行確率が見えてくるのではないかと思います。
 はたして、幸福確率80%になるか、非行確率80%になるか。とにかく、たまには子育て衛星、教育衛星を親も教師も打ち上げてみたいものです。

『心の発癌性物質』

 今年の夏休みはアトランタ・オリンピックで大いに楽しませてもらいましたが、一方で堺市を中心とした大腸菌O157による集団中毒が大きな社会問題となり、本市でもその対策におおわらわでした。7月の末にトイレの消毒とプールの使用禁止の通達が市教委からありました。また、臨時校園長会が開かれ、9月からの対策が指示されました。給食のある小学校では特に神経を使っていることだろうと思います。中学校でも毎日トイレの消毒と水道の水質検査を実施しています。十分その予防対策に注意を払うことに越したことはありませんが、あまりにも神経質にになりすぎ、子供たちを過度な潔癖症にしてしまうことも、また問題があろうかと思います。今、マスコミや関係機関はO157の菌をなくすことだけに注意が注がれているようですが、私たちの回りにはO157以外にもさまざまな菌や発癌性物質などからだに有害な物質はいくらでも存在しています。当然取り除かなければならないもの、取り除くことのできるものは無くしていかなければなりませんが、完全に無くすことは不可能です。むしろ、O157などに感染しても、それに打ち克つことのできる抵抗力をもった体力を子供たちにつけることが大切であり、もっとそのことが強調されてもよいのではないかと思います。
 同じことは「心の健康」についても言えると思います。口のなかに入る有害物質同様、目や耳から入ってくる「心の発癌性物質」とも言えるものが巷にあふれています。街に野放しになっているタバコやアルコール類の自動販売機、店頭に並ぶポルノ雑誌やビデオ、ばらまかれるテレクラのチラシ、家庭内に飛び込んでくる視聴率絶対優先のテレビ番組、友達を必要としないファミコンゲーム、これらを大腸菌のように消毒して無くしてしまうことはまず不可能です。といって、それらから子供を隔離するわけにもいきません。仮にそれができたとしても、これからますます情報化の進む社会で抵抗力も免疫もないまま大人になって社会に出たら、もっと大変なことになるのは目に見えています。結局は、それに打ち克つだけの精神の力を子供たちにつけさせることが必要なのではないでしょうか。先の中教審1次答申で強調されていた「生きる力」というのも、要はそのことを指しているものと思います。しかし、問題はそうした「生きる力」を学校や家庭で、どうしたら身につけさせられるのかです。今見るような心の有害物質がほとんどなかった昔と比べ、現代は子供の教育がますます難しくなっていることは確かです。学校や家庭の教育力が低下しているなどとは、私は思いません。ただ難しくなっているだけです。教師も親も子供の将来の幸せを願って、今、何をすべきなのか、お互いに真剣に考えていきたいと思います。

 

校長の話

『木の個性』

 新しい学級になって10日程になりますが、もう慣れましたか。

 私は、朝はたいてい駅から歩いてくるのですが、公園や住宅の周りに木がたくさんあって、それを見ながら来るのが楽しみです。木の名前についてはよく知りませんが、見るのはすきです。
 今はちょうど若葉が出てきたところで、その可愛らしい、柔らかそうな葉っぱを見ていると、木も生きているんだなと何となく感動を覚えます。春になるといっせいに若葉が萌出でて・・なんていう表現がありますが、よく見るとそんなことはないですね。木によってはもう一杯に葉をつけて、かっこよく一人前の木らしくなっていますが、中にはまるで枯れ木のように葉っぱがついていないのもあります。歩道の横に並んでいる同じ種類の木でも若葉の出ているものもあれば、出ていないのもあります。それが隣同士並んでいるのを見て、ああ、やっぱり木にも個性があるんだなと思いました。もし、木が人間みたいに意識をもっていたら、葉っぱの出ている木は、隣の葉っぱの出ていない木を見て、得意げに自慢しているのではないかなと思ったり、葉っぱの出ていない木はうらやましがったり、焦ったりしているのではないかなと思います。でも、夏になればどの木も青々と繁って立派な姿になります。そして、私たちに日陰をつくってくれたり、目を楽しませてくれます。
 皆さんにも個性があり、得意、不得意があります。ちょっとできるからといって自慢して見たり、できないからといって卑下したり焦ったりしてらいけません。人間も木のようにだれでも立派なよい人間になる要素をもっているのです。大切なのはマイペースで、かつ自分の能力を十分に発揮するよう努力することです。

『個人と集団』

 先日は、本当に素晴しい体育大会を見せてもらいました。平素学校の中では見つけることのできない本校の生徒諸君のよいところを存分に見せてもらいました。特に団体競技でクラス全体が一丸となって力を合わせている姿はよかった。その中でも、竹とり競争やタイヤとりでは競技中に全力をつくしエキサイトしていても、一端勝負が決まると、力を出しきった満足感を味わいながら、互いの健闘をたたえ、気持ちよ句分かれていく様子をみて、本当に素晴しい生徒諸君だなと感動しました。ちょっと思慮に欠けたものだとゲームとケンカの区別がつかず、試合終了の合図があっても、竹竿やタイヤがないところで争いを続けたりするものです。それから個人競技については、それぞれの能力や得意な種目を考えて各クラスで話し合いをして出場種目を決めたと聞いています。例年と同じ決め方かもしれませんがこれも素晴しいことだと思います。全員が100メートルや1500に出るのではなく、その人その人の個性に応じた活躍の場を作るということは大変よいことだと思います。それに応援団のリーダーや団長も自分から進んで引き受けたと聞きました。そうした自主性こそ、これからの世の中でひつようなんです。
 さあ、今度は文化発表会ですね。今度もそれぞれ自分のできる、得意な分野で活躍してください。台本や解説の文を考える人、文字を書く人、看板を作る人、そんな才能はないけどきれい好きな人は後かたずけの責任者になったらよい。背の高い人とは高いところへの飾り付けなどいってに引き受けたらよい。それからだれも引き受けない仕事があったら、自分の可能性をためすよい機会だから積極的に引き受けなさい。とにかくクラスの全員が自分の個性や能力を発揮できて、それが認められた人は、他人の個性や優れた点を評価でき、認めることのできる人になるだろうと思います。一緒に作業をしていてドンクサイなと思う友達がいても、その友達はその作業にはドンクサイけど、他の面で優れている点があることを認められるようになるだろうと思います。学級のためにしていることであれば、それぞれ違うことをしていてもそれぞれの互いの良さを認めあうことによって、学級はまとまり、楽しい集団になるに違いありません。
 文化発表会を見せてもらうことを今から楽しみにしています。

『人を助ける』

 先週の水曜日だったか、朝、いつものように駅から歩いて学校へ来る途中、H高校の近くで自転車に乗っていた女子高生が目の前で道を曲がり損ねてこけたんですね。大きな怪我はしていないようで、膝を少し擦りむいたみたいでした。道に座り込んだままソックスについている泥をはたいていました。それでも、目の前で倒れて、その脇を通って行くのですから助けてあげなければいけないと思ったのですが、どうやら自分で立てそうなのに、「しっかりしろ」などと言って、抱きかかえて立たせてあげるのも、相手が女子高生であるので、ちょっとやり過ぎだし、かえって恥ずかしい思いをさせてしまうに違いない。といって、黙って知らん顔して通りすぎてしまうのも薄情で、冷たい気がしする。迷いましたね。結局どうしたと思います?そばへいって「大丈夫か?」と声をかけました。ちょっと恥ずかしそうにこちらを向いてうなずいたので、そのまま通りすぎました。しかし、通り過ぎてから、もっと他に怪我はないか、自分で立てるかなど聞いてあげるべきだったかな、せめて倒れている自転車だけでも立ててあげるべきだったかなと、反省しました。
 目の前に困ったり、苦しんでいる人がいたら助けてあげろというのは当り前のことだし、言うのは簡単なことです。しかし、実際の場面で具体的にどう助けたらよいのかは、なかなか難しいことです。これも私が経験したことですが、以前に奈良公園で1歳か2歳の小さな子が、やはり私の目の前で転んで泣き出したことがありました。近くにその子のお母さんらしい人がいたのですが、私の方がすぐそばにいたので、とっさに助け起こそうとしたんです。するとそのお母さんが近づいてきて、私にニコッとほほえみながら子どもに「さあ、自分で立ってごらん」と声をかけたんです。それで私は、「ああ、このお母さんは、子どもに転んでも自分で立ち上がらせようとしたんだな」と気付きました。それなら、助け起こしてあげるのではなく、そのお母さんのようにそばへいって、「坊や、しっかり自分で立ってごらん。」と言ってやるのがよかったのかもしれません。
 つまり、困ったり苦しんでいる人にどう救いの手をさしのべるかは、その人の身になって、その人がどうしてほしいと思っているのかを分かってあげなければならない。難しいことですね。でも、それでないと自分ではよいことをしているつもりでも、単なるおせっかいになったり、かえって相手に嫌な思いをさせることもある。ただし、それでも知らん顔をして見て見ぬ振りをするよりましだとは思いますよ。一番悪いのは困ったり苦しんでいる人がいても知らん顔をしてなにもしないことです。イジメについても同じことが言えると思います。苛めている人が悪いことは当然のことですが、そばで見ていて何もしない傍観者も悪い。いじめられている友達の気持ちは、友達である皆さんにはよく分かるはずです。どうすべきか判断し、勇気をもって行動してほしいと思います。それが「良い人間」のすることであるし、皆さんの生活の場であるこの学校や自分の学級を楽しいものにしていくことにつながると思います。

『本物を見よう』

 一昨日の中学校総体では選手諸君、素晴しい活躍をしてくれたこと嬉しく思います。応援の皆さんも精一杯応援してくれたことと思います。昨日はその代休で休みになりましたが、選手諸君の疲れはとれましたか。
 ところで、私は昨日、中学2年の私の子どもも休みだったので一緒に「そごう」へビュッフェの絵画展を見にいきました。とても素晴しかったです。ビュッフェは今年67歳になるフランスの画家ですが、私がビュッフェの絵をはじめて見たのは、今から30年ほど前、鎌倉の美術館でした。その時とても感動して、それからビュッフェが好きになりました。その後複製や画集などではよく見ましたが、本物を70点もまとめて見たのは、その鎌倉の美術館以来でした。やはりよかったです。数年前シャガールの絵画展を見た時は、何か全く違った次元の世界に自分が置かれているような、不思議な錯覚にとらわれながら美術館を出ました。
 とにかく、ホンマモンはいい。音楽でもそうだと思います。最近ウオークマンなどで音楽を聴く人が増えていますが、どんなジャンルの音楽でもよいものを聴くことは、たとえテープでもいいことだと思います。でも時には機会があれば本物を聴いてほしいい。ライブコンサートなど。音楽の時間にレコード鑑賞でクラシックを聴くこともあると思いますが、生のオーケストラを聴いたらもっと素晴しい。本物がよいというのは何も芸術だけではないです。3年生は修学旅行で本物の東京を見たでしょう。普段テレビのニュースやドラマで東京の様子は見ているけれども、実際に目のあたりに東京を肌で感じると、テレビで見るのとはかなり違ったのではないでしょうか。野球や相撲などのスポーツでも実際に球場や国技館で見ると迫力が違う。吉本の喜劇や漫才でもたまには大阪の花月へ行ってごらんなさい、面白さが違う。面白いところはもっと面白いし、しょうもないギャグはほんとにしょうもない。本物を見たり聴いたりすることは、そのものの本当の姿が分かるのです。そして私たちのものを見る目ができてくる。つまり目が肥えてくるんです。そうすると、私たちの感覚すなわちセンスが養われるのです。センスが養われると何がよいかのか分かるようになるんです。生活が豊になるんです。生きていることが楽しくなるんです。最近は、テレビやレコードなど機械や技術が発達してきているから、すぐコピーで間に合わせて満足してしまう。時にはコピーを本物と思い込んでしまう。それではよいセンスは身につかない。皆さんもできるだけ本物を見たり聴いたりして心から感動する機会をもってほしいと思います。

『グッドな子』

 今、全員に修了証書を渡しました。今日、家に帰ったら修了証書を見せるだけでなくそのなかにある通知表もちゃんと家の人に見せなさい。毎学期の終わりにも見せていると思いますが。
 ところで、通知表を見た家の人はいつもなんて言うかな。よく頑張ったと褒めてくれるか。何だこれ、もっとしっかり勉強しなけりゃ駄目じゃないか、と頭をコツンとやられるか。あるいは、じろじろと眺めて、ふーん、分かった、と一言いうだけかな。でも、どんな言い方をしても子どもの成績が気にならない親はいないでしょう。しかし、私が思うに、特別、成績が上がったり下がったりした場合を除いては、こうした親のいろいろな言い方は成績そのものにはあまり関係ないみたいです。どうも、親の性格や教育方針によるんだと思う。つまり、それぞれの親の個性だね。私の家でも、私がまあまあだな、いいじゃないか、と言うと、母親は、いや、これでは駄目だといって意見が対立するんですね。言われた本人は何と言われようと平気な顔をしていますがね。
 ところで、面白いのは、日本の親とアメリカの親とでは子どもの成績に対する感じ方が違うんです。日本の多くの親は自分の子どもの成績にあまり満足していないんですが、アメリカの親の多くは、自分の子どもはよくできると見ているんです。こんな調査結果を見て、なぜかなと考えてみたんです。東洋人と欧米人の物の考え方の違いかなとも思います。つまり民族のもつ個性かな。それに日本人は成績の善し悪しを総合点で考える傾向があるみたいです。総合点で考えれば成績の1番から順に一列に並びます。すると1番でない限り誰かが自分の上位にいます。するとそれを目標に頑張れということになる。ところが欧米では子どもの得意な面だけみて、うちの子はよくできると見るのではないかと思います。このことは佐賀大学のある教授の話をある雑誌で読んで感じたことなんです。というのは、この教授がアメリカのインディアナ大学に留学していたときに体験したことなんですが、アメリカの親たちが自分の子どもに「クラスで誰がグッドな(よくできる)人なの」と聞いたとき、子どもは「A君は作文がグッド」「Bさんは計算がグッド」と答えたそうです。親もそれで納得したみたいだという。つまり親も子もそれぞれの個別的な才能を評価しているんです。
 それに、これもその教授の話ですが、教授の子どもがアメリカの学校に転入して、はじめは無視されていたのが、急に注目を浴びた事件があったといいいます。それは、サッカーでクラス一番の強いキックをする子どものボールを、その子が自分の顔で受け止めたんだそうです。そのファイトによって一気に友達が7人もできた、というんです。子ども同士でも精一杯やっているところを、大事にするんですね。私たちも、友達同士で、あるいは我々教師が生徒諸君を見る場合も、また君たちが先生方を見る場合も、お互いにその優れたところ、よいところを認め合っていくような学校にしたいものだと思います。

『ねばならない』

 実は、昨日まで、今日の集会で話をしようと思っていたことがあったんですが、今朝学校へ来るときもう一度そのことを考えていたら、こんなこと話してもしょうがないかな、と思いはじめたんです。それで、何かもったいをつけるようですが話すのやめました。「今日は話すことありません。終わり」と言ったら君たちもほっとするでしょう。だいいち、月曜集会は校長が話しをすることになっていますが、必ず何か話さなければならないものでもないでしょう。そもそも世の中には「ねばならない」「ねばならない」ということが多すぎやしませんか。学校へ行かねばならない。勉強しなければならない。親のいうことは聞かねばならない。そりゃそうなんですが、いつもそれを100%完全にしようとしていたら、精神疲れてしまいますよ。私でも自慢にはならないけど、出席しなければならない会合をうっかり忘れてしまったりすることもあります。でも、そんな時「あ!しまった」とは思いますが、それ以上くよくよしないことにしているんです。勿論人からはそれなりの批判は受けますよ。月曜集会で「話すことありません」といってやめてしまえば、なんだあの校長は手を抜いているなと言われるかもしれません。でもそれはしょうがないじゃないですか。自分がしたことなんですから。
 しかし、ひとつだけ言っておきたいことがあります。自分で自分自身に「ねばならない」と命じた場合は、最大の努力をして、勇気を出してやり遂げてほしいと思う。
 自分がしなければならないと思ったことをしていくことは、まさに自分自身を作り上げていくことであり、他から、しなければならないと言われたことをただしているのは、その他大勢のうちの一人になるだけです。