篆刻Gallery

展覧会出品作品(1)

篆刻Galleryにようこそ!

 篆刻をはじめてもう50年にもなります。その間、いくらか鑑賞力は身についたようにも思いますが、制作となると未だに思うようなものができず、情けないことです。
 篆刻は書道の一分野で、毛筆書道と同じように文字の構成(布字)や線の勢い(線質)の良さが命です。しかし、制作過程を見ると工芸的でもあり、必ずしも毛筆書道と同一には考えられない面もあるのではないかと思われます。この辺りは専門の篆刻家の先生方には、いろいろな言い分もあるかと思いますが・・・。
 ところで、このCohoh(孤蓬)は全く書道をやったことがないのに篆刻を始めたのですから、どうしても工芸的になります。その後書道の稽古も篆書を中心にやってはみましたが、やはり最初の影響は残ります。そして今ではパソコンまで活用するのですから、まぁ邪道と言えば邪道ですね・・^.^;
 このGalleryに載せた印は、この「展覧会作品(1)」のページ以外はかなり昔のものです。とにかく最近は白朱展の作品以外は頼まれた落款印を年に数個刻すぐらいです。

白朱展は毎年5月か6月に開催していますが、cohohは2012年に退会しました。次に刀を持つのは何時のことか・・・?

 

【展覧会出品作品(1)】は2000年以降の白朱展への出品作品です。それ以前のものは【出品作(2)】に載せています。

悠悠閑適:’12年:(ゆうゆうかんてき)ゆったりとして、心静かに楽しく過ごすこと。そうありたいものです。 老少不定:’12年:(ろうしょうふじょう)老人も少年もいつ死ぬかわからないこと。死期は予知できず、人の命のはかなく寿命の定めがたいたとえ。悲しいことですが、最近、全くその通りだと思い知らされました。
隔靴掻痒:’11年:(かっかそうよう)靴を隔てて痒いところを掻くように、思うようにならなくて非常にもどかしということ。 自我作古:’11年:(我より古(いにしえ)を作(な)す。出典「宋史」
城復于隍’10年:「城、隍(濠)に復(かえ)る」 心如水’10年:「心、水の如し」
遐壽無極 ’09年:「かじゅきわまりなし」長命が限りなきにいう語 延壽万歳と同義 刮骨禅 ’09年:「かっこつぜん」情識とか分別を削りとって、本体にすり換えてしまうこと。つまり有無迷悟の二見を断ち切ってしまう禅のことをいう。「同山録」
處静修間: ’08年「静(せい)に處(お)り間(かん)を修(おさ)む」静かなる境に在って清閑にすごす 處静修間: ’08年 
眇眇兮予懐: ’07年 「びょうびょうなりわがおもい」(赤壁賦)我が想いは遠くはるかにひろがる。 欣遊暢神: ’07年 「ゆうをよろこびしんをのぶ」遊び楽しんで精神をのびのびさせる 
停雲: ’06年 「ていうん」1,親友を思う情をいう(陶淵明の停雲篇序にみる)2,歌声が美しく行く雲もとどまる。 長楽萬年: ’06年 「ちょうらくばんねん」楽しいことが限りなく続くことで「長楽無極」ととともにめでたいことによ使われる言葉。
老當益壯: ’05年 今回の作品はいずれも2寸(6cm)角の印材を使いました。 □酒糟漢: ’05年 「しゅそをくらうのかん」酒やどぶろくを食らっているやから、転じて下根劣機のやからとか、文字言句をよりどころとしている学者先生を軽蔑した語
図書独娯: ’04年 絵画や書物を見て吾れ独り娯しむ 好堅樹: ’04年 長く土中に埋まっていて、百年目に芽を出し一年のうちに高さ百丈ほどにのびるという樹。仏の功徳の広大無辺を例えたもののようです。
棋逢敵手: ’03年 碁の好敵手にめぐり逢うという碁好きの私にふさわしい言葉。さて、その好敵手とは? 羊頭馬脯: ’03年 羊頭狗肉と同じ意味
少神底人: ’02年 (しょうしんていのひと) 精神の足らん馬鹿な奴 。私のこと 撥雲尋道: ’01年 
安詳恭敬: ’00年  逢場作戯: ’00年
:出典・解釈は「禅林名句辞典」飯田利行編著、「墨場必携」大文館書店版、「新修墨場必携」山本正一篇などより
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